昭和三十九年十一月十七日 夜の御理解
今日お昼の時だった。何の事からだったでしょうか。あーそうそう竹内先生のことからだったでしょ。あの大和さんの話の続きなんです。もう本当に大和さんの信心にまあ敬服するという。本当にいい信心だなーと。本当に目立たないけれども、何か知らんけどもう自分だけだなーとこう力を貯えていきござるという感じ。何か事という時には、それが惜しみなくその力が発揮でけでる時のために、力を貯えて行きよんなさる。まあ泥のような信心だとまあー相撲でいうなら栃光ですかね。熊本出身大関ですかね。そのような感じです。とにかく第一信心の行儀がいい。そしてもう稽古熱心である。もう本当に栃光のあれをあのアナウンサーがいつもたんびのように言うております。
ネそこの所をようなことで今日はその竹内先生のことからだったんです。はやりそんな話が、私と古賀先生と久我山先生と三人でさして頂いたことでした。竹内先生の場合でも、そんな話か出てました。とにかく偉い先生ですよねちいうわけです。久我山先生と古賀先生の話を聞かして頂ながら本当にそうだなーと私も思うんです。とにかく伊万里市の助役という公用にありながらですね、しかもその助役さんといやまあーほとんど大変な実際面の仕事がたくさんおありになる中にです、もうそれをしておられるのに、ここに見えてから仕事が忙しいというような風を出されたことがないですね。それかと言うて信心にあれだけまあー言うなら力んな信心をしておられるにもかかわらず、一つも力んだところを見せられないことですね。ありゃ頭が良かですばいち。もうそう言うところをキリと分けてある。いわゆる信心とお仕事が両立しておる。それでいて晩は十時でも十一時でも、あの難儀な氏子の人達がたくさん集まってくると、それに御理解を頂いて、いちいち御理解を様々な難儀を聞いては自分のお届け帳に細々と書いてそれを何日かおきに椛目に持って参られて、お取り次を頂いてご神意を司われたり、お伺いをしたりお願をなさったりして帰られる。しかし本当に偉い先生であるですねて言う話があってましたですけどね。
あの大和さんの場合でもそれを感じるですね。私は大和さんの場合に頭がいいから、それを信心と仕事が両立しておられるというのではなくて、もういわゆるなんて言うんですか、ただ稽古熱心という以外にはないですね。稽古熱心だということ。しかしその稽古がですたい現在実際自分の仕事の上に現していく、又家庭の上に仕事の上に現わしていきよんなさるということ。ですから信心とそれが両立していきよる。だから人のようにそのちょっとぼうけらっしゃるタイプじゃないわけですね。こりゃ竹内先生の場合でも大和さんの場合でも同じ事なんです。そこを例えば竹内先生の場合なんかはまあー永年の信心と、それからあーした信心意欲が旺盛であると、それでいて何かそのぼうけてしまわれるといった様なそのものが見えん。その中に強いものが、いつも感じるというて話しておりました。私もそれを聞いてから本当にそうだなーそういう確かに偉い先生だですなー。本当にそういや大和さんの信心は良い信心だなーと久我山先生が言われるに、とにかく泥のような信心ですなー大和さんの信心はというわけなんです。
私は皆さんに、例えば菊栄会といえば、本当に仕事の上でも家庭の上でも又社会の上においても、やはり中堅層の方達の集いですから、そこがその信心とそうしたご用の面がです両立していかなければいけないと私は思う。どうでも私それをですね、言わば竹内先生辺りのように、その私達のようにあれだけ信心に打ち込んだら仕事のことがお留守になるからどうしても、ところが竹内先生の場合なんかお留守に出来ない仕事。重職にある方なんですからね。そりゃやはりありゃ頭がいいからなんですね。きちっとこう分けておられるのじゃなかろうか。それかというて信心がこちらの中に仕事ももう混然としてですね一つとなってどっちにもご粗末ご無礼になってないということです。菊栄会の方達の場合なんかは、ちょっとその一生懸命なると信心の方に傾きやすい。ちよっとすると仕事が忙しいと仕事に追われてしまっとるといったようなそう言う意味で、竹内先生のそれとこりゃしかし頭の悪い者にはでけませんからね、でけんに致しましてもです大和さんの真似ならでけんことなかろうと私はこう思うんですよ。
なんか大和さんを前にして言うとちょっとおかしいんですけど、そりゃ神様の目からご覧になりゃ分かりませんけれども、今日私どもが三人が大和さんを現わして、又いろいろ話してましたけど、あの稽古熱心であるということ。しかし折り目正しいということ。これは本当にあの一辺皆さんの栃錦をアナウンサーが表しておる。あの人の人格とかあの人の稽古ぶりとかといったような事あれです。だから皆さんの方が詳しいんです。だからあー言う様なものを大和さんの信心の中に感ずることがでける。本当に目立たない。しかも椛目ではぞんざいですけど、とにかく椛目の言わばどこかにこう力になっておられるという感じです。そりゃ家庭も複雑な家庭、お仕事の方も畳屋さんとお百姓さんというこの二つの仕事をです。どっちもこう余さずですね、お粗末にせずご無礼にせずね、言わば信心とお仕事がもう一体となって所謂よくそんな事が言われます。信心と仕事が両立しないといったような事が、片一方に打ち込めば片一方がお留守になるとそういうような事があってはならないですね。お道の信心では、それはそんならどこから来ておるかというと、やはりあの稽古不足じゃないかと思うですね。
そういうような所をですね今晩あたり私はその無口な大和さんですから、まあーかねてお話になっておるか知らんけども、どういうそういう中に信心を中心にしてね今晩は、お話を進められたらいいなと。例えば今日のその芳郎さんとか麻生さんなんかが本当に今、桜井先生とこのまあーささやかなお広前ですね。朝から先生も?欲しておられるということ。それでも毎日欠かさず、その行ってはまあー言うなら忠実な総代さんのような風でですね。まあー一生懸命お取り次の言わばお手伝をしておるとこう本当にお米がないのじゃなかろうか。子供さん達のもうことりがないのじゃなかろうか。家賃は払いなさったろうかという事まで細々と心を使って、その稽古をさせて頂いておる。ところがその麻生さんの場合、私は関係ないですけども、芳郎さんの場合、それに打ち込むもんですから、お仕事の方がお留守になっておるという感じですね。そして神様の方に打ち込んだら、こちらの方は神様がなんて言うですかね。神の用を足したら氏子の用は神が足してやると仰るような極端な悪い例にあるような感じがするんです。
しかし神の用を足したら氏子の用は神が足してやると仰るのはです、私は大和さんのような生き方じゃないかと思うんですね。まあーえらいベタ誉めに誉めましたけども、そりゃ私どもが言うただけですよ。神様の目から見たら、どうか分かりませんとよ。こりゃ自分の胸に問うて見たら一番分かるけれども、私どもが確かに理想とするのは、確かに大和さん当りのような本当に泥のような感じの信心ですね。もう目立つことはいらん。自分だけはもうじっとその力を貯えている。そしていよいよ土俵上に上がったら、日頃の稽古にもの言わせるといったようなですね信心。そういう信心が、椛目の信心に欠けておるような気がします。竹内先生のそれからも、それを感じました。はあー椛目の方はどうも両立させきらないような所がある様な感じがします。どうぞ今日はそういうようなとこに焦点を置いて稽古をなさったらどうでしょう。
先程、妹が言うておりました。二、三日前夜中に兄さんが一生懸命ご祈念しよんなさる。もうそれこそなんか知らんけど一生懸命もうそれこそ神様の前に座りとうしてたまらんという感じでご祈念しよんなさると言うような事言うて、さあーいつもしてるんですけど分からんのですけど、いつもと言うても今晩のようにですね、私は夜のご祈念だけは、お客さんいわゆるお参りしておる方で、私は夜のご祈念を仕えるです。ですから例えば帰りの時なんかもう言わば祝詞、天津祝詞なんかも長い間ご祈念をさせて頂くといったようなことが、遅くなったらそれがあるんです。ですからそれで皆さんが帰ってしもうてから、夜中でも私は必ずそれをして休むんです。さあーそれは知りません。誰も知りません。誰も知らんけど、やっぱり信心があっとるからということの妹が言っておりましたけども、そのくらいの事じゃありません。やはり人が助かるという事になってくるとですね、例えば本当に神様だけがご承知の信心というような信心がなされて始めて、本当の事になるのじゃないでしょうか。
菊栄会の方達もまあー言うなら椛目の信心の言うなら中堅的な方達ばかりですから、そういう信心もあっても、ありましょうけどももっと垢抜けしたもの。本気で例えばいざといった時、信心がもの言うておるような、おかげ頂いとらなければですね、信心を頂いておる値打ち、本当にもう価値はないです。今日、私は大和さんの稽古熱心というようなところにですね、まあー後輩ながら他の人達にしても、やはり後輩ですけども、背負うた子に教えられるという事もあります。何があーいう風に大和さんを一生懸命の稽古に導いておるかというようなものを探してみる事も、私はおかげだと思うですね。おかげ頂きました。